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月食
2010 / 12 / 20 ( Mon )

あぁ明るい月だなと見上げたら、仄暗い外灯であった。

やや足りぬ外灯だなと振り返れば、日食の宵であった。

世の中狂っていると思っていたそれは、気が故障しているに過ぎなかった。

精一杯今日の課題を終えたと満足した私は

いささか脇が甘くなっている。



文豪が回りくどく描き残した 人間の一片は、

現代の我々にとっては目新しくもなく、不注意な大衆でもなければ

すぐに他人からそれを見出して、祭り上げることも容易であり、

それを自分の中に見出しても、自戒や自問が利くものだと私は高を括っている。

しかし、創作に敬意を払わずに批評するものは筋を違えている。

彼らは立ちあがる痛みを知らずにただ立ち尽くすことで

同じ威厳をもてると思い上がっている。

0を1にすることと、1を2にすることは始点が違う。

その意味で、やはり先駆者というのは、偉大、あるいは得がたい存在なのである。


欲望や情やら正義やらというものがさも存在するかのように力を与えたのは

批判者であり、前提の創作者だ。それにしても言葉を闊歩させすぎてはいる。

闊歩するどころか先を妻走る時間という概念を頼れば

創作者の起こした意味はある側面で重さを失う。

それこそ、

人間性であったり、日常に巣くう理想だ、道徳だという崇高な像を暴いた

創作者の古い勲章だ。

だから我々は常に、過去の血と知を飲んで、より細い線上を歩かねばならない。

それが学習する人間であると信じる。

だから昨今流行のよに

近世に類似性を見出してもそれを現代より良いものだとも思えないし、

戻りたいとは思わない。かといって西洋迎合無批判の近代の風習をぬぐう努力を

怠ることも私はよいとは公に発する勇気はない。

近代における成長のための痛みは、消えぬ感覚を残している。


自由とは不自由の自覚より初めて出ずる感覚である。

回顧的な思想や先のない端へ導く蒙昧な思想など

静かに背後に回り操ろうとするもののイトを須らく断ち切るべしとまでいわないにせよ

須らく点検すべきである。


我々は常に次々に変わる、瞬光から、意味を見出し子孫と己を残すことを

考えねばならない。フラッシュバックに取り付かれてばかりいてもならないし

目を真っ白にしてもならない。






だからどうということはない。



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