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だれもいない
2009 / 09 / 27 ( Sun )

馬鹿とも愚民ともいうのもその話者の品をあからさまに

さげるように思えるので新しい自身だけの隠語をつかおうと思う。





自分の思考でどうすべきか示すことができてもそれができぬ
境遇に腹が立つ

そこをいくと完璧な生活を目指していると思えてくる。







話しすぎた週で 議論のできない人間の多さを実感して不機嫌になる。

何故

自分が何におびえているか そのことも考えようとできていないのに

恥ずかしいとは思わないのか。


公衆に つまり知り合いにみえるように不機嫌にあたること

それは甘えだ。

電子媒体をつかってそういったことを無差別に行うのは相変わらず

胸糞が悪い。それも甘えに違いない。


だからといってそれを同じ方法で行うのではそれ同等の醜態をさらす

わけであって。

一生懸命であるからこそそうでない人間に腹が立つけれど

そうでない場合はそうされた時分、「そうはいっても」といって

対極に立つような矛盾と都合のよさ。

そこに立ち向かうのが理性だが

方法序説への違和感と同じように理性だけでの限界をどうすべきかの

答えがでない。感覚と理性とのその二項的な考えがそもそも成立しないのでは

と疑っているのだが、なかなかその言葉が二分する世界とは便利で

罪深いともおもう。つまり言葉のささやかな違いがわからないばか者たち

はその二つのどちらかに留めなく迫る問題を投げ入れることでしか

思考を展開できないのだから。


人の行動という一番表面にあるものの原動となる

内的な営力の法則とその流れ。そういったものをなぜ

見抜けないのか。

真に腹が立ってしょうがないので

こんな性分では肉体に与える影響を考えると

長く生きるに耐えないだろうと思う。



すべての根源は己の流れとそれを制御する器官の不具合から。

そこをなんとかすれば他人なぞどうでもよくなろうだろうと思う。



寝てもさめず、動いてもさめず、働いてもさめない。

だが

これは一段階、齢と経験の蓄積したいいいかえることも

不都合ではないのかもしれないという希望と結論をもつ。
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20:23:48 | 思想・問答 | トラックバック() | コメント(0) | page top↑
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